比田篤志さん
1979年神奈川県生まれ。
10代の頃から、飲食店を経営する夢を持っていた比田さん。
資金をためるためにいろんな職業に携わる。
同世代で、その生き方が当時の若者たちから圧倒的な支持を得ていた
自由人・高橋歩に憧れ、せっかく貯めた開業資金も
旅行費用につぎ込んでしまうという破天荒な若者でもあった。
現在の奥さま・彰子さんと初めて出会ったのは
伊豆諸島の式根島でアルバイトをしていたとき。
そして比田さんは2002年、23歳で三重に移住し、
ふたりの関係は急速に深まる。
紆余曲折があるのは、誰の人生にもよくあること。
2010年、晴れて結婚したふたりは、
その秋に亀山市の景勝地・石水渓近くの山荘で
オーガニック・レストランを始めた。
■夢は自営業! その先にあったものは…
神奈川県座間市で生まれた比田篤志さんは、現在34歳。
都市部に近いありふれたベッドタウンで育った篤志さんは
10代のころから世界チャンピオンを育てたビリヤード場に出入りする、
一風変わった若者だった。
高校卒業後、大学へ進学するよりも友人の紹介で、とび職の世界へ。
「あのころは、とにかくお金を貯めて自営業者になりたかった」のだそうだ。
周りからは、目標をしっかりと持つ若者のように映ったが、実際のことろは少し違う。
とび職で同年代の若者に比べれば収入は多かったが、
貯金が溜まる一方で店を持つ夢が褪せていった。
「高橋歩の本を読んで、もっと違う生き方があるような気がして…」
ある程度、貯金が溜まったら篤志さんは、旅に出ようとひそかに決意していた。
21歳の夏。篤志さんは、突然思い立ったように伊豆の式根島に向かう。
住み込みで夏リゾートのアルバイト要員に加わった。
アウトドアや人との出会いに憧れていた若き日。
自営業者への夢は、だんだん小さくなっていたころだ。
そして、式根島で運命的な出会いがあった。
現在の奥さま・彰子さんとの出会い。
彰子さんも同様に夏季だけのアルバイトに来ていたのだった。
「最初の出会いは特にトキメキのようなものもなかったんですよ」
と当時の様子を笑いながら話す、彰子さん。
このときはまだ、お互いが将来の伴侶になるとは想像もしていなかった。
秋になり、日常に戻った篤志さんだったが
仕事にかける熱意はどんどん下がる一方。
ついには半年ほど仕事をやめて、ブラブラ生活するようになっていた。
「自分でも、やりたいことがコロコロ変わるんですよね」
旅に憧れ、新しい出会いを求めるうちに
篤志さんのなかに眠っていたボヘミアン的な人格が、
ひそかに目を覚ましはじめてきた。
■高橋歩式、アジアを旅する日々
22歳。篤志さんは突然、何を思ったのかフランチャイズ契約で、
軽便運送の仕事を始めた。
「特に理由はなかった」とは思えない、電光石火の行動力だ。
彰子さんによれば、「突然思いついたことを始める性格」なんだとか。
そして深く考えずに行動した結果、残ったのは100万円の借金だけ。
「とびの仕事をして借金は返しました」というのなら
ずっととびの仕事をやれば? と老婆心ながら思ったが
「自分の思う通りに生きたい」篤志さんには、
失敗も人生のなかでのささいな経験だということだろうか。
2002年、23歳のときに篤志さんは三重県鈴鹿市に越してくる。
彰子さんの実家は隣接する亀山市。
すでに、このときふたりは付き合っていたのですね、と質問を投げると
「えっ。このときはまだ何も。式根島で知り合ってから
電話で近況などは報告しあっていましたが…」と予想外の答え。
ただ知り合いがいる三重に興味を持ったのだとか。本当だろうか…
鈴鹿に越してきた篤志さんは、得意のとびの仕事で生計を立てていた。
と思ったら溜まった貯金で、初めての海外へ旅立ったのだ。
2003年、24歳。2月の旅立ちだった。行き先はアジア。
バッグパックで廻った国は、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、
ネパール、インド…。
旅を始めてすぐのこと。タイで乗った深夜バスで、甘い旅行者ならではの洗礼を受ける。
バッグに入れていた現金30万円を盗まれたのだ。
普通なら、消沈して旅行なかば帰りたいところだが、篤志さんはこたえなかった。
「ほかにも現金はありましたからね。なんとななるさぁ」
ポジティブなのか、こだわらない性格なのか。
とにかく旅は続き、最後にたどり着いたインドでは、1か月以上も滞在した。
「結局日本に帰ってきたのは、翌年の夏でした」
6か月間をかけた初めてのアジアの旅は、確実に篤志さんを変え始めた。
日本に戻ると、今度はすぐさま北海道へ。
旅行で貯金を使い果たした篤志さんは、資金を作るためにじゃがいも収穫の仕事に。
秋まで、仕事を続け資金が溜まったら、次は再びインドへ。
3か月間をインドで過ごし、いったん日本に戻ったと思ったら
すぐさま翌年の2月、今度はオーストラリアへ。
なんとも目まぐるしい日々が続く。
オーストラリアでは、ヒッピー文化が今も色濃く残るバイロンベイで過ごした。
この年、彰子さんも単身オーストラリアへと旅立った。
1年間のワーキングホリデーのビザを取得し、現地の生活を堪能するためだ。
なによりも一番の目的は、篤志さんとの再会だった。
現地で落ち合ったふたりは、農場で収穫作業をしたり、
ホテルの清掃などをしながら海外生活を満喫した。
そして日本に戻ってきたふたり。
篤志さんは26歳、彰子さんは23歳。2人にとってまだまだ人生は長い。
篤志さんが次にチャレンジしたのは陶芸だった。
ただ「やりたいなぁ〜」と思った結果の行動だったそうだ。
伊豆の伊東にある工房に住みつき、体験工房などの助手をしながら
工芸作家への道に進む…はずだった。
それまでに描いていたイメージと、実際のギャップが大きかったのか
なんと篤志さんは、程なく座間市の実家に戻ってしまう。
そのころ彰子さんは、当時亀山にあったオーガニック・レストラン「月の庭」で
働いていた。世界に触れ、食べものこと、環境について真剣に考え始めていた。
篤志さんは、相変わらずボヘミアンな生活が続いていて
今度は亀山のアパートに住み、工場や、茶農園、便利屋から居酒屋まで…
将来のことなど、まったく頭にないような日々を過ごす。
そんな篤志さんの様子に、彰子さんはきっと不安だったに違いない。
将来の約束をしていたわけではないが、気づけば27歳。
結婚のことも考えないわけではなかった。
意を決して結婚話を切り出したのは、彰子さんだった。
その後、ふたりの間にどのような時間が流れたかは、想像することとしよう。
■結婚。そして店を中心に新しい生き方への模索を
2010年、4月。ふたりの思いが結ばれ、晴れて結婚式が執り行われた。
親族の披露宴は「月の庭」でスタッフ全員の手作りの料理。
そして100人を超える友人やゲストを迎えたパーティーは
亀山の自然に囲まれたキャンプ場で。
もちろん、こちらもすべて手作りの素敵なイベントだった。
この会場が、後のふたりのかけがえのない場所に育っていくことを
このときは、まだ誰も知らなかった。
このキャンプ場のすぐ前に「望仙荘」という山荘がある。
昭和54年に地元有志らの出資で建てられたもので
石水渓に訪れる観光客の宿泊施設として利用されていた。
しかし周囲に新しい施設ができたことや、老朽化のため使われなくなっていた。
結婚パーティーのとき、篤志さんと彰子さんは、山荘の大家さんにすかさず尋ねる。
「貸してもらえませんか?」
幸い彰子さんの実家も近く、ご両親がこの山荘と無縁ではなかったことから
大家さんも快諾。古びた山荘が若者たちの手で活き返るのなら…
そんな想いもあったのだろうか。
彰子さんはその年の8月で「月の庭」を辞め、お店の準備を始める。
自分たちの手でリノベーションできるところはすべてやった。
メニューは、「月の庭」で学んだ自然食をベースに彰子さんが担当。
そして、ふたりにとってかけがえのないお店、
「山小屋カフェ・望仙荘」が2010年11月に誕生した。
亀山の一番奥深い地域にありながら、木々に囲まれたロケーションも手伝って開店してから、数か月で若い人たちの人気スポットに。
しかし篤志さんたちがパーティーを開いたキャンプ場は
整備されずにそのままの状態だった。
篤志さんはこの思い出の場所に、たくさんの人が集まることを夢みた。
そして、ひとり荒れたキャンプ場の整備に日々取りかかったのだ。
その年の秋、篤志さんは有志らと、このキャンプ場で
「亀フェス2011」という音楽イベントを開催。
環境に配慮した企画と味わい深いミュージシャンを集め、
250人を超える参加者が集まった。
「自分らしいことができたと思います」と篤志さん。
今までに出会った仲間と力を合わせて、
ひとつのイベントを成功させた自信は明日への活力になる。
さらに翌年は「米フェス」と名づけた収穫祭でキャンプ場を賑わせた。
農業と環境について考えるイベントは、100人の来場者があった。
望仙荘のすぐ近くに、県内でも少なくなった棚田がある。
他の棚田同様、機械が入らないため年ごとに放棄田が増えてきていた。
「食事を提供する店なので、食材は出来る限り自分たちの手で作りたかった」のが稲作を始めたきっかけだった。
持ち主から田を借り、仲間たちと一緒になって、無農薬、無肥料でチャレンジ。
最初は地元の農家の人に助けてもらいながら育てた。
広さに見合った収穫ができるようになってきたのは、3年目から。
現在では、お店のごはんに自家米を出せるまでになった。
誰の目にも、これまでボヘミアンのような生き方をしてきた篤志さん。
亀山の地で家族にも恵まれ店を構えた。
篤志さんにとって、ここが最終目標地点なのだろうか。
「人との新しい出会いが何よりも好き」なのだと言う。
きっと今日も、お店で新しい出会いが待っているのだろう。
そんなことを考えていたら、コーヒーを淹れる篤志さんの横顔が、微笑んでいるように見えた。
文 立岡茂
取材日 2014年4月6日